1985年、春を待たずに名瀬港の夜空に汽笛が鳴り響く。
僕は東京へ向かうフェリー「波之上丸」の甲板の上にいる、スピーカーから別れの名曲蛍の光が鳴り響き、その隙間から別れを惜しむ声、応援の歓声等が聞こえてくる。
小さな奄美大島には大学もないし就職先も少ないから、自ずと高校卒業と同時に9割位が内地へと向かう。
まだ高校を卒業したばかりの18歳で親から貰った4万円と入社式用大島紬のスーツとネクタイと姉に貰ったフォークギターを持って、雪や電車のない島からの旅立ちは不安と期待で一杯だった。
甲板から下を見るとさっきまで一緒にいた仲間達がいて、その中には奄美三少年の二人、平君と盛君はいない。
あの惨劇(書籍:奄美三少年・ユタへの道 記)平少年が神棚を壊してから彼はユタの世界から距離を置くようになってしまい、またそれぞれの旅立ちの準備も重なり、バラバラになっていた。
甲板から視線を真正面の待合ロビーのあるビルの屋上を見ると、父親母親妹がなにか照れくさそうに、視線を泳がせながら見送ってくれている。
僕が少し手を振ると、父親は腰に手を当てたままだが、母親と妹はいつまでも手を振ってくれていた。
いよいよ汽笛が鳴り響き始め、さっき下の友達に投げて指先で、か細く支える五色のテープが伸び始めた、だんだんと船と陸が離れてゆき、友達は海のギリギリまで来てテープが切れないようにしてくている。
一本、二本とテープが切れ始めると共に、船は港を離れて港のきらびやかな光と奄美大島の山々の全体が見え始め、船は遠く二泊三日かけて東京へ向かった。