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旅立ちー奄美から東京へ No.3

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東京の地に海から上がる海洋生物のような気持ちで、奄美とは全く違う、山ではなく巨大な建物と海のように見える人の頭の波の中へ進んで行く。

まず初めに驚いたのが、人の歩くスピードと距離です、奄美では滅多に歩かないと言ったほうがいいくらい、1分以上歩く距離なら自転車や車を使う。

タクシーでは大体ワンメーター、家族でタクシーを捕まえながら目的地に向かって歩くと、タクシーより先に到着してしまう事などはよくある話。

だから内地に行くと皆痩せて帰ってくる理由がよくわかる。

駅の改札に向かう人の波に歩き遅れると田舎者とアピールしているような感じがして必死に歩いた、そして北千住へと向かった。

私が勤める事になったのは60店舗位の美容室チエーン店。
何故、美容室なのかの経緯についてこれからお話致します。

大島紬製造業を営む私の父親が演歌が好きで、キャバレー等でやっている生バンドのアコーディオン弾きでした。歌を歌うのも好きでNHKのど自慢大会で賞を取ったのがキッカケで東京からスカウトマンもやって来たが歌の道へは進まなかったそうです。

私の幼少期に、父は家に人が集まると私を呼び、皆の前でアコーディオンの伴奏で演歌を歌わせるのが好きでした。
私もその時流行っていた演歌歌手ぴんからトリオの「女の操」を十八番で歌ってました。

そんな影響もあってか、人前で歌を歌うのが好きになり、夏祭りなど機会があれば人前で歌を歌ってました。

私が中学生に入る頃には演歌を押しのけてフォークソングブーム到来。

お姉さんがよく聞いていたラジオのオールナイト日本という番組から、演歌とは全く違う新しいジャンルの曲が聞こえて来るようになりました。

その中で、同じ鹿児島県出身のフォーク歌手「長渕剛」に心を打たれて、お姉さんがいわゆるFコード(指使いが難しい)で挫折したギターを譲り受けて、ギターを弾き始め作詞作曲にも取り組むようになり、ヤマハ主催のポップコンテスト等にも出るようになりました。

そして、高校ではフォークソング部に入り部長まで努め、いつかプロのミュージシャンになりたいと夢を持つようになったのです。

親と高校を卒業した後どうするかという話になった時にそんな夢を話したら、駄目だった時の為にまず何か資格を取れという話になり、元々人の髪の毛を切ったりするのが好きで友達の髪の毛を切ったりしていたので、美容師の資格を取ろうと思った訳です。

学校に来ていた住み込みの求人では、奈良県のものしかなく東京に行きたかった自分を説得しなががら、一度はそこに決めたのですが、僕の気持ちを察してくれた姉が同窓生が東京の美容室で店長をやっているからと、話をつけてくれてギリギリの所で東京への道が開かれたのでした。

続く

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